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「神の国の原則を打ち立てる」(150222ni)
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イザヤ書59:14〜16
59:14 こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき/正しいことは通ることもできない。59:15 まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。59:16 主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業。
 
 
皆さんは、「あなたにとってクリスチャンとしての使命は何ですか」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。 ある人は礼拝を守ることだ、と言うかもしれません。幾つか上げてみますと聖書を読むことや、お祈りをすること、献金をすること、小隊の行事のお手伝いをすること、社会奉仕活動に参加すること、伝道をすること、訪問すること、友人を小隊に誘うこと、イエス様に繋がっている事と言う答えもできるでしょう。
これらは皆クリスチャンとして必要なことですが、「クリスチャンとしての使命は何ですか」と言う問いに対する答えとしては十分ではありません。
これらの答えは目的に向かっての手段と言うことが出来ますが、その答えは、マタイによる福音書28:18に記されています。つまりイエス様による宣教命令と言われているものです。
「28:18 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 。
 
ところが多くのクリスチャンはこの宣教命令の前半の所が主の宣教命令と誤解しているようです。つまり、 「28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け」なさい。これがクリスチャンの使命と考えています。すべての人をキリストの弟子とする、つまり、伝道をすると言うことに成ります。勿論、弟子とすると言う意味には幾つかありますが多くの人が、伝道する、福音を伝えると言う意味に取っていると思います。
 
しかし、皆さん考えてみて欲しいのですが、全ての人がクリスチャンになったらどうでしょうか。ノンクリスチャンが居なくなったらクリスチャンの使命はもう無くなってしまった事になります。
これは困りますね。でもご安心ください、先程の宣教命令の後半がまだあります。
 
「28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」 。
ありました。イエス様に命じられたこと、つまり、聖書に記されている山上の説教や、黄金律、十戒や、たとえ話の中に私たちが守るべき、生き方が記されています。
一つ挙げますと、マタイ5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
このようなキリストの言葉を人々に教え、実行出来るように教えると言う使命がありました。
皆さんの中にはクリスチャンに成れば自然に実行出来る、と考えておられる人もいると思いますが、必ずしもそうではないと言うことを、私自身も経験して分かっていますし、全てのクリスチャンがキリストのようになっているとは言いがたいと言うことを理解していると思います。
これには深い学びと訓練と練習が必要である訳です。
 
さて、クリスチャンは天国行きの切符を手にすれば訓練とか練習とか、そんなに必死にならなくても良いのでしょうか。
いやいや、そんなことはありません。もし日本人が全てクリスチャンに成ったとして、そのクリスチャンが以前の生き方と何ら変わっていなければ、やはり今起こっている不正や不合理なこと、悲惨な出来事は今と変わらないと言う事になってしまいます。そうであったとしたならば何のための伝道で有ったのかと言うことに成ってしまいます。
 
神様の御心は「全ての人が神の国の原則によって生き、社会が神の国の原則によって営まれると言うことです」。
神の国の原則とは正義、真実、誠実、正直、公平、高潔、清さ、愛、思いやりです。
この神の国の原則を打ち立てるためにこそ、イエス様は2000年前に私たちの世に来てくださった訳です。
 
勿論、福音は行いによる義を求めているのではなく、信仰による義を伝えるものです。イエス様は私たちのありのままを受け入れてくださっている訳ですが、しかし、救われた後も今まで通りで良いですよとは言っていません。
イエス様は言いました。ヨハネ8:11
「女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」
また、マタイ7:21
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
 
更にヨハネの手紙T5:3 「神を愛するとは、神の掟を守ることです。」とあります。
キリストを愛しているのであればその言葉を守り行うのは普通のことです。
イエス・キリストによって救われた者はみな、キリストを愛します。皆さんは愛していますか? もし、イエス・キリストを愛していない、と言う人は実はまだ、イエス・キリストによって救われたと言う経験、体験が十分でない可能性があります。その場合は「自分にとってイエス・キリストによって救われるとは、どう言うこなのかと言うことを、もう一度自分の心に問いかけてみる事をお薦めいたします。
 
救われると言うことは、一つには安倍晋三よりも、バラク・オバマよりも有名で、力ある方が味方になってくださると言うことです。ですからイエス・キリストによって救われた者はみな、キリストを愛する訳です。
 そしてキリストを愛する者は、キリストのことば、掟を守る訳です。
ルカによる福音書7:47 にこうも記されています。
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
イエス・キリストは私の人生に大きな影響を与えています。イエス・キリストによって私は新しい人間に作り替えられました。それがイエスキリストの救いです。
皆さんはイエス・キリストに対する愛は、大きいのでしょうか、小さいのでしょうか。小さいかなと思われる人は、もう一度、「イエス・キリストによって救われるとはどう言うことなのかと言うことを、自分自身に問うて頂きたいと思います。」
 
ブレイク
「美しすぎる!心揺れるホームレスのピアノ演奏!」
カナダのアルバータ州エドモントン。そこで、30年間ホームレス生活をしているライアン氏。
市役所が設置した誰でも弾けるピアノを彼が弾き始めた時、誰もがその才能に感動した。そして驚くべきことに、彼は、音楽の専門訓練を受けたことはない。その音たちの深さと優しさ、そして繊細さには驚かされる。その美しい旋律に、あなたはきっと心を奪われるだろう・・・。この演奏のテーマを私は「誠実はかくありき」と付けました。
 
さて、私が救世軍士官に献身した理由には、幾つかありましたが、その一つは「一般の会社よりも救世軍の働きに参加するならば依り尊い働きに参加することになる」と言う思いと「一般の会社よりも依り真実で誠実、正直な社会の中で生きられる」と思った事です。
これは献身の理由と言うよりも献身に進む中で感じていたことかもしれません。しかし、確かにその働きは尊いものでしたが、救世軍社会が真実で誠実、正直な社会と言うにはまだ努力が必要と感じています。
 
私が建築会社に勤めていた時、新しく入ってきた社員が「お金を貸してくれ」と言うので貸した所が、まもなく彼は夜逃げのようにしていなくなってしまいました。私は彼を信用して貸したのだから仕方ないと諦めていましたが、社長から「あう言う人を雇った私が悪いのだから会社で弁償するから」と言われました。
 その時は会社からお金を貰ったら、新(しん)入(にゆう)社員の同僚を信じたことを取消、彼を恨んでいると言うことに成ると思いまして、社長の申し出を断りました。私は逃げた同僚を愛していると言ったら誤解されそうですが、私は彼を許していたし、同情もしていた訳です。
 
しかし、この出来事を思い出す度に、一般社会の方がクリスチャン社会よりも愛情のある関係が築かれている部分もあるなと感じる訳です。勿論、一般社会では利益を上げることには厳しいし、不正や、下請けに対して不当な扱いをしたりする会社が有ったりと言う事がある訳です。
 
私は感じています。クリスチャン社会が世俗の社会以上に真実で誠実、正直で思いやりのある社会となっていなければ、私自身何のために献身してきたのだろうと言うことに成ってしまうと言うことです。
 
先日NHK第2テレビの番組を録画した所、偶然、前の番組の終わりの方が録画されていました。次のような内容でした。アメリカのパメラさんという人の紹介でしたが、彼女は公認不正検査士という肩書きを持っていて、会計不正や巨額投資詐欺を摘発するなどをして政権が騒然とするようなことに関係している人です。
 
その中での解説にアメリカ人は正直であると言うことに対して誇りを持っていると言っています。また、日本人の建前(基本方針)というのは、実はアメリカでは"ウソ"と捉えられています、と言っていました。
次の言葉が公認不正検査士パメラさんのメッセージの内容です。「皆デジタル三昧で忘れがちですが、やっぱり大事なのは、人柄の誠実さですからね。今の世の中、誠実であることをもっとアピールすべきです。正直な世界にしていこうよ。"真実を重んじ、ウソを減らしていこう"とね。そうすると世の中、ちょっぴり変わり始める、これ真実です。」
 
もう一つのことについて述べたいと思います。それは法律と言うことについてです。皆さんは法律は何のためにあると考えておられるでしょうか。誰のためにあると思っておられるでしょうか。___その答えは「弱者のため」と言うことです。弱い人を守るため、或いは助けるために法律は作られています。税金は所得再配分システムの主要な施策(せさく)です。これによって弱者への福祉行政が進められます。
 
ですから税金を払うと言うことは、隣人を愛すると言う行為である訳です。ですから「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)と命じられているクリスチャンは積極的にこれを守るべきである訳です。
 
 また、車の運転では環七は良く整えられた道路ですが現在は制限速度は50q/hになりましたが数年前までは40q/hでした。環七を40q/hで走るにはよほどの注意力と努力が必要です。油断すると直ぐに50q/h、60q/hに成ってしまうからです。
環七がどうして制限速度が40q/hだったのでしょうか。それはちょうど杉並の沿線で光化学スモッグが発生したことや、騒音被害の訴えなどがあったからです。ですから車の制限速度を守るというのも弱者を守るという意味があります。ですから隣人愛を訴えているクリスチャンは積極的に守るべきなのです。
 
また、エコドライブは地球に優しい運転です。神様が造ってくださった地球を大事にすると言うことはクリスチャンが手本を示さなければ成らないことですから、エコドライブについても積極的に取り入れなければ成りません。
 
国は沢山の法律を作っていますが、人々は何とか法律の網の目をくぐって得(とく)をしようとしています。人の行動を変えるには法律では変えることが出来ません。その心が変えられなければ人は正しい生き方に変えられることはありません。クリスチャンが法律を守るのでなければ法律を守る人は居なくなってしまいます。クリスチャンは法律を守ると言う点でも手本を示さなければ成りません。
 
さて、聖書は何といっているでしょうか。イザヤ書
「59:14 こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき/正しいことは通ることもできない。59:15 まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。」
 不義な世の中を描写している訳ですが、リビングバイブルでは次のように成っています。
「59:14 法廷では正しい人を不利にし、公平な精神など薬にしたくてもありません。真実は路上で行き倒れになり、正義は追放されています。59:15 真実は行方不明になり、まじめな生活をしようと心掛ける者は、直ぐさま攻撃の的になります。」
 つまり、義を求める人は道の真ん中を歩くことが出来ないで、道の端っこを小さくなって歩いていると言っています。皆さんはこのような経験をしたことはないでしょうか。正しいことを訴えたら逆に攻撃されて、小さくなっていなければならない、と言うような出来事です。
 
 そのような状態を見て神様は悲しんでおられます。59:15節の後半に、「それは主の御目に悪と映った。59:16 主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。」
 神様はこの地上を見られて「それは主の御目に悪と映った。」と述べておられます。
 
更に「主は人ひとりいないのを見」「驚かれた。」と述べています。神様は人間が見えなくなってしまったのでしょうか。そうではありません。神様は人間が何十億人いたとしても、神様にとっては儀を行い義を打ち立てる人、その人が神様にとっては人として見えると言うことです。
ところが神様は地上を見回した所「人ひとりいないのを見」「驚かれた。」と言うのです。儀を行い義を打ち立てる人は一人も居なかったと嘆いておられます。
 
59:16後半、「主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業。」
 神様は人間に頼るのを諦(あきら)め、そこでご自分のひとり子イエス・キリストを世に送られました。____イエス・キリストは地上に義を打ち立てるために来られたお方です。
 
ですからイエス様は山上の説教で言われた訳です。
(マタイ)「5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」
「神の国の原則を打ち立てる」。これがイエス・キリストによって始められ、今私たちがその戦士として立たされている訳です。ですからクリスチャンの使命は「神の国の原則」を世に打ち立てると言う事です。
あなたは神様から人として見られているでしょうか。