ヨハネによる福音書 4:27〜38
4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」4:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。4:31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、4:32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。4:33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。4:34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。4:35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、4:36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。4:37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
先日は「この世の楽しみに触れないように」と言う事を会話の中で使いましたが、それは人はその環境の色に染まるものだと言う事から述べました。私がお酒を止めたのはそれまで通っていた酒場に行くのを止めて、救世軍に行くようになったために、お酒は必要で無くなったからです。
お酒を止めようとするなら、お酒のない環境に自分を置くならばその事が実現します。
「この世の楽しみ」については特に私は小説が一番の危険物だと思います。テレビのドラマ等です。あるいはラジオドラマ等、私はテレビが無いので、ラジオを聞いている時にたまたまラジオドラマを聞きました。聞き始めるとだんだん引き込まれて行って最後まで聞いてしまいましたが、終わった途端、聖書的な主題とは全く違い、空しさで一杯になりました。それ以来ラジオドラマが始まるとラジオを止めるようにしています。
小説も三浦綾子さんの「塩狩峠」等のような聖書を土台としたものは、読んだ後も空しさではなく、希望が与えられます。しかし、それ以外のものは、読んでいる時ははらはらどきどきとか、感動とか、充実感がありますが、終わってしまうと、その感動が現実社会とは違うという事のために、結局は空しさが戻ってきてしまいます。あるいは見る前以上に増幅されます。
家族で映画などを見るような時は、映画そのものよりも家族で一緒に出かけると言う事に意義があるのであって、映画そのものはその手段という事になると思います。子供が小さい時にはよく映画館に行きましたが、その頃はまだ今のような考えは無かったので私自身も楽しんでいました。「今度はゴジラが上陸するらしい」などと言っていましたが、その様な物の依存症にならないように注意したいと思います。
空想の物語りはどんなに感動したとしても、それが終わってしまうと空しさだけが残ります。
しかし現実の中での感動はいつまでも残ります。私たちは現実の中に生きるべきであって、空想の中に生きてはなりません。事実は小説よりも奇なり、と言いますが、現実の活動の中にこそ感動があります。
特殊な例ではありますが、阪神淡路大震災の時の神戸慰問の時は、みんなが時間割無しで活動していたので、これでは奉仕者が慰問される側になってしまうのではと思い、ミーティングの時間や、就寝時間を決めるなどという事を提案したりという事がありました。
また上官が来るというので、昼ご飯の用意を初めてしました。
結局慰問に出発はしたものの渋滞のため引き返すなどと言う事があって、慰問活動に参加できませんでしたが、ボランティアの皆さんへのお手伝いにはなったのでは無いかと思います。
しかし、帰りの大阪への車の中では助手席に座っているのも辛い程疲れていました。
このように実に現実は小説よりも奇なりと言うことがあるわけです。そしてそれは小説や映画では味わえない感動と充実感を得る事が出来ます。特殊な場合に限らず日常の生活の中にこそ真の喜びがある訳です。
メディアを通して得られる情報は身のまわりの現実とは異にしていますのでこれに長い時間を当てるのは良くありません。熊谷市の取り組みでも子供達に3減運動を進めようと勧めています。つまり、テレビの時間を減らす。ゲームの時間を減らす。携帯電話やパソコンに触れる時間を減らすというものです。救世軍でもこの働きを応援していきたいと思います。
さて、ではこの世的な楽しみを止めてしまったら、何を楽しみとすればいいのですかと問いたくなると思います。神様は私たちから楽しみを奪い、ただ窮屈と、苦しみだけを与えようとしておられるのでしょうか。勿論そうではありません。
イエス様は言いました4:32「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と。私たちにとって食事は楽しみの中でも大きな比重を占めているものです。イエス様は私たちの知らない「楽しみがある」と言っている訳です。
それは4:34「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と言う事です。
イエス様はサマリアのヤコブの井戸の前で休んでおられましたが、そこへサマリアの婦人が水をくみに来たので、「生ける水」(10)について「永遠の命に至る水」(14)について語りました。イエス様にとってその婦人が回心し絶望から希望へ、暗闇から光の人生に変えられる事は、イエス様の使命であると共に喜びであり楽しみでもある訳です。
イエス様は言いました。4:35「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」と。
私たちはこの世界の管理者として美しい聖い世界を保つと共に、私たちの心も清くある事の幸いを、人々にお知らせし、神の救いを受けるようにと勧めようではありませんか。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(コリントU6:2)なのですから。
本来、この世的という言葉はなかった訳です。創造の初めには世界は一つでした。しかしいつの日からか、世俗と神の国が分離してしまいました。すべての人は神の国の一員です。その人々との交わりの中に感動があり、喜びがあり、楽しみが存在します。
神様の祝福の中に生かされている日々を感謝いたしましょう。
<要約>
私は「この世の楽しみに囚われないように」と注意をしています。それは人はその環境の色に染まるものだと言う事からです。例えばお酒を止めようとするなら、お酒のない環境に自分を置くならば止めることが出来ます。特に私は小説やドラマが信仰を力無いものにしていると思います。それらはこの世的な考えに洗脳し、更にフィクションであるために現実に戻ると空しさで一杯になってしまい、現実から逃避しようとさせます。本当の喜び感動、永続する楽しみは現実の生活の中にこそあります。特殊な例ではありますが、阪神淡路大震災の時の神戸慰問の時は、みんなで力を合わせ被災者の助けになろうと全力を注ぎました。今でもその感動は消える事はありません。
さて、ではこの世的な楽しみを止めてしまったら、何を楽しみとすればよいのですかと問いたくなると思います。神様は私たちから楽しみを奪い、ただ窮屈と、苦しみだけを与えようとしておられるのでしょうか。勿論そうではありません。イエス様は4:32「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言いましたが、私たちにとって食事は楽しみの中でも大きな比重を占めているものです。イエス様は私たちの知らない「楽しみがある」と言っています。それは4:34「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と言う事です。イエス様はサマリアの婦人に「生ける水」(4:10)について「永遠の命に至る水」(4:14)について語りました。イエス様にとって人々が絶望から希望へ、暗闇から光の人生に変えられる事が使命であり楽しみです。私たちも同じ思いを持って行きましょう。神の愛を実践し、霊的救いについて語りましょう。