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「夢を見る能力」(110313ku)
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ガラテヤの信徒への手紙 3:26〜29
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
 
私たちはそれぞれ目的を持って神によって創造されたものです。
信仰とは、つまりこの目的から右にも左にも逸(そ)れることなく、その目的が現実のものとなるまで努力することです。
人生にはいろいろなアクシデントが起こります。またその様なことが連続して起こることもあります。その様なときに、信仰がためされています。「やあ、やっぱりこれは無理だね」とか「敗北だ」とか、あるいは「御心ではないのでは」と疑いで一杯にする人があります。
真の信仰者はこのような時にも、右にも左にも逸(そ)れることなく、その目的が現実のものとなるまで努力致します。どんなにアクシデントが続こうとも、神様の私たちに対する目的は変更されることは決してありません。
 
ローマ11:29に「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」とありますが、神様の私たちに対する目的も決して変更されることはありません。また、神の言葉も変わることはありません。一度語られたことは、必ず実現いたします。ヘブライ人への手紙13:8に「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」とありますが、イエス様が語られたことは変わることがありません。
ですから、神の言葉と現実がどんなに乖離していようとも、ついには神の言葉が実現すると言うことを信じるように致しましょう。
 
たとえば、エレミヤ書29:11には「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」とあります。
この御言葉はどんなに災いが続こうとも、その災いの次に必ず平和と希望に溢れる人生があります、と言う事を表しています。信仰とは、環境や状況に決して左右されるものではないと言うことを覚えたいと思います。
 そう言う意味で、運命という言葉はこの世にはないと言うことを覚えたいと思います。、これはサタンの蒔いた嘘の言葉です。「私はこうなる運命にあった」と言う人が居ますが、それは全くの誤りです。運命ではなく、神様の計画であり、それを選び取ったと言うことです。
あるいは、悪いことであれば、敗北を受け入れてしまったと言うことになります。神様の計画は私たちが祝福を受け取ることである、と言うことであり、これ以外は何もありません。
 
ですからこの世に運命はありません。あるのは神様の祝福の約束の言葉のみであることを覚えてまいりましょう。
ですから、心に沸いてくる良いものを信じて実行し努力をして行きましょう。そうするならば必ず実現いたします。
 それとは反対に、悪い思が沸いてきたときには、それを信じることはしないように致しましょう。それは神様から来たものではないからです。
 
アブラハムは祝福の約束を頂いたときに、それを信じ、受け取り、努力し、信頼しました。それ故に神様の言葉は実現いたしました。
ヨセフは人々のリーダーとなる夢を見ましたが、彼はそれを受け入れ、どんな逆境の中にも神様を信頼して、神様を裏切ることをしないで、人々の援助者としての立場を貫き、努力をしました。それによってエジプトをイスラエルの揺(ゆ)り籠としようとの神様の計画が実現いたしました。
 創世記50:20でヨセフは「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」と言っています。彼は反対者であっても決して恨むようなことはしませんでした。そうではなく、彼らも神の子であり、ついには神様に従順な者となることを信じて疑いませんでした。ヨセフは神様の言葉は必ず実現すると信じる真の信仰者でありました。
 
神様は世界の創造の最後にその世界の主人公としてその作品の最高のものとして人間を造られました。エペソの信徒への手紙2:10に「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」と口語訳聖書にあります。
 しかし、人間は神様に反逆したために、その素晴らしい能力を発揮することができないでいますが、しかし、イエス様の御業を通して私たちはその能力を回復しています。
 
マルコによる福音書4:8に「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」とあります。神の作品としての能力を回復している私たちは三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶものとされているお互いであることを覚えたいと思います。
神様の言葉は決してむなしく戻ってくることがないことを信じましょう。
 
神様は私たち人間に夢を見る能力を与えています。人間以外の動物は夢を見ません。動物は本能というプログラムに従って生きるものとして造られているからです。しかし、人間は夢を見る能力があります。またその反面、夢がなければ生きられないと言うこともあります。人間は衣食住が足りていても夢がなければ生きられません。死ぬのにも夢が必要です。つまり、死の後にイエス様の懐に憩うとの夢がなければ死ぬに死ねないと言う事が起こってきます。
 
さて、私たちは皆救われる以前は放蕩息子でした。最悪の状態の時に、我に帰り、父の家に戻り、悔改めを現そうという夢を見ました。このためにセカンドチャンスを求めることにしました。
 そしてその夢は実現し、最悪の状態からの回復が実現致しました。ところが、この最悪の状態から回復したところで立ち止まっていることがよくあります。最悪の状態からの回復は神様のご計画のほんの一部にしか過ぎません。
 
聖書は何といっているでしょうか。マタイによる福音書12:43「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
 つまり最悪の状態からの回復は「汚れた霊」が出て行った状態を表しています。その状態に留まっているならば、以前よりも悪い状態に陥る恐れがあります。汚れた霊が出ていったならば、良い霊を積極的に取り入れる必要があります。
 
今までは、マイナスの状態でした。しかし、プラスマイナスゼロの状態に回復しました。次にはプラスの状態に自分を変化させる必要があります。それが、私たちはそれぞれ目的を持って神によって創造されたものです、と言うことを自覚するという意味です。
 それには自己イメージを高めると言うことも含まれます。そして、神様の夢を実現することに生きると言うことです。神様の夢とは、神の秩序と道と原則を地上に確立すると言うことです。これが神様が望んででおられることであり神様の夢です。
そう言う意味で私たちは人々のリーダーとなるように神によって任命されています。これが、私たちはそれぞれ目的を持って神によって創造されたものです、と言う意味です。
 
夢を見るとは現実とは全く異なった将来の中に自分を描いてみる能力を持つことです。これに到達できるのは信仰を通してだけです。ローマ10:17に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。つまり、人が神のことばと関係を持つ時、信仰によって人生が支配されていきます。人が本当に神の夢を理解し、信仰によって受け入れる時に、その人は他(ほか)の人たちよりも一歩霊的に高い状態になります。
 創世記15:5に「「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」」
これが、アブラハムへの約束でした。そして今このアブラハムへの約束が私たちへの約束となっています。
 
ガラテヤの信徒への手紙3:29「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」とある通りです。
 どうぞ今日も勝利者としての心の態度をもって神様からの目的を実現する者として、主に信頼を献げましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 人は皆それぞれ目的を持って神によって創造されました。信仰とは、この目的から右にも左にも逸(そ)れることなく、その目的が現実のものとなるまで努力することです。人生にはいろいろなアクシデントが起こります。またその様なことが連続して起こることもあります。その様なときに、信仰がためされます。「やあ、やっぱりこれは無理だね」とか「敗北だ」とか、あるいは「御心ではないのでは」と疑いで一杯にする人が居ます。真の信仰者はこのような時にも、右にも左にも逸れることなく、その目的が現実のものとなるまで努力致します。どんなにアクシデントが続こうとも、神様の私たちに対する目的は変更されることは決してありません。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ローマ11:29)。そう言う意味で、運命という言葉はこの世にはありません。人生は神様からの祝福を選び取って行くもので既に定まっているものではないからです。ヨセフは人々のリーダーとなる夢を見ましたが、彼はそれを受け入れ、どんな逆境の中にも神様を信頼して、神様を裏切ることをしないで、人々への援助者としての立場を貫き、努力をしました。それによってエジプトをイスラエルの揺り籠としようとの神様の計画が実現いたしました。創世記50:20でヨセフは「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」と言っています。彼は反対者であっても決して恨むようなことはしませんでした。そうではなく、彼らもついには神様に従順な者となることを信じて疑いませんでした。ヨセフは神様の言葉は必ず実現すると信じる真の信仰者でした。
 
さて、私たちは皆救われる以前は皆放蕩息子でした。最悪の状態の時に、我に帰り、父の家に戻り、悔改めを現そうという夢を見ました。このためにセカンドチャンスを求めることにしました。そしてその夢は実現し、最悪の状態からの回復が実現致しました。ところが、この最悪の状態から回復したところで立ち止まっていることがよくあります。最悪の状態からの回復は神様の御計画のほんの一部にしか過ぎません。今までは、マイナスの状態でした。しかし、プラスマイナスゼロの状態に回復しました。次にはプラスの状態に自分を変化させる必要があります。それが、私たちはそれぞれ目的を持って神によって創造されたものです、と言う意味です。自己イメージを高めましょう。そして、神様の夢を実現することに生きるように致しましょう。今日も勝利者としての心の態度をもって神様からの目的を実現する者として、主に信頼を献げましょう。