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「手放しで喜ぶために」(101017ku)
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マタイによる福音書10:26〜39
10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
 
 
今日は「手放しで喜ぶために」とのテーマを付けました。これは信仰は単純で良いんですよ、との意味です。
しかし、この単純と言うことは、勇気の要ることです。多くの人は単純であることを避けようとして、信仰を難しいものとして曖昧さを引き出しています。
 
そうではなく単純にキリストに従う事が、信仰ですよと言うことが繰り返し語られています。
26節の「人々を恐れてはならない。」とは、あなたにとって「人」が大事なのか、「わたし」が大事なのか、とイエス様は問うています。日本人は特に長いものに巻かれろと言うことが普通のことと考えられているところがあるので、注意が必要です。大勢の中で一人だけ別な意見を述べることが平和を乱す者として、悪いことと見なされることがあります。
クリスチャンの場合でも多勢の意見に従うことが平和を作り出す者であり、隣人を愛することだと考えるところがあります。大勢の意見に合わせることと、隣人を愛することとは別問題なのです。強いて言うならば隣人を愛するのであれば正しいと思う意見を言うことの方が最終的には隣人を愛することになります。
聖書的にはその意見が多いか、少ないかで判断されるのではなく、正しい意見か、間違った意見か、善なのか、悪なのかによって判断します。
 
「人々を恐れてはならない。」とは、機会のある限り、「私はキリストの者です」と言うことを証しするように、と言う意味です。
イエス・キリストは人々の中で覆われていますが、やがて覆いは取り除かれ、誰の目にも明らかな存在となります。イエス・キリストは人々の中で隠されていますが、やがて誰からも知られる存在となります。
 
27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。 イエス・キリストの言葉こそが永遠に変わることのない真理です。最後に残る言葉はイエス・キリストの言葉です。イエス・キリストの言葉を恥とするようなことがあっては成りません。
 
28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。 死は人間の最大の敵であるために、多くの人は脅しや恐喝に屈服しています。しかし、キリストに従い続けるならば、身体は滅ぼされても魂は天国に行くことが出来ます。決して悪に荷担してはなりません。
 
イエス・キリストを拒むことの方が私たちにとって恐ろしいことなのです。それは罪を犯したアダムや、アベルを殺したカインの心境です。この地上にはもはや心休まるところがありません。
 
29節「二羽の雀が一アサリオン(600円)で売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
先日は「神の創造と進化」の講演の中で、如何に私たちの地球が生物の生息可能な環境に神様によって維持されているかと言うことについて学びました。科学者たちはこの広大な宇宙規模の中でこれほどまでに調整されていることは「奇蹟」と言う他はない、と言っていますが、イエス様は地球環境どころか、一羽の雀から、私たちの髪の毛の数まで覚えられていると言っています。
神様が味方であることは、すべてに勝る平安の基です。
 
32節「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。
何と明快な言葉でしょうか。私たちは天国の門でイエス様に歓迎して貰えるように、もっともっとイエス・キリストの名を人々の前に明らかにしたいと思います。
やがて、イエス・キリストの懐に抱かれることを夢見てイエス・キリストこそ王の王、主の主であることを人々に伝えたいと思います。
 
34節「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」
 イエス様は恒久的な平和を創るために、この地上に降り立ち、サタンとの戦いに挑みました。
私たちはイエス・キリストの側に付くのか、サタンの側に付くのかの決断を迫られています。私たちは万一父や母、息子や娘が反対するようなことがあっても、イエス・キリストを愛する者でなければ成りません。
 私たちはイエス・キリストの側に立って、父母、息子娘を救うのか、父母、息子娘の側に立って共に滅びるのか、の選択を迫られています。私たちはイエス・キリストに繋がっていない限り実を結ぶことは出来ません。
 
38節「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
 確かに人々の前で、人と違う意見を言うと言うことは勇気の要ることです。これは心の王座にイエス様を迎え入れているのでなければ出来ることではありません。自分の人生の支配権をイエス様に明け渡していなければ出来ないのです。
 
この異教社会の中でイエス・キリストに全く従うと言うことは、非常に勇気が要ることであり、又迫害を受けることを覚悟しなければ成りません。
 
しかし、39節の御言葉は真実であることは間違いありません。それは私の経験から言っても確認することが出来ます。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(10:39)。
 お酒を強いられた時には、それを拒否することによって返って、それ以来誰からも誘われることが無くなりました。命を脅かされるような時にも、それを拒否することによって再び脅されることはなくなりました。
ノーと言うことによって、地位や名誉を失うことがありましたが、それによって神様からの本当の使命について啓示を受けるということがありました。
 
また、今新たな課題が見つかりましたが、それは過去の失敗について謝ると言うことです。これは命がけの事例よりも、もっと勇気が必要です。人に謝ると言うことは。ノーと言うよりも難しいものです。
 先日うっかり失礼な事を言ってしまった事があって後から、自分に死んで、もはや生きているのは私ではない、と決心しまして、「ごめんなさい」と言いました。
 そうしましたらまだ謝らなければならないことを思い出しました。また近いうちに行ってこようと思っています。
 
ここで私が告白しているのは自分のためではなくて、皆さんのお手本として述べているのですから、皆さんも謝らなければならない時には自分に死んで謝ってみてください。
それによって心の重荷が取り除かれます。
 
「手放しで喜ぶために」私たちは何が必要なのでしょうか。それは単純にイエス様に従うことと、自分の人生の支配権をイエス様に完全に明け渡す、と言うことです。
その時には、混乱の原因になるかもしれませんが、その事によって恒久的な平和がそこに打ち立てられます。
 何れにしても、私たちはイエス様にすべてをお委ねしているのであれば、何時も「手放しで喜」んで居ることが出来ます。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ13:8)お方だからです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 「手放しで喜ぶために」とのテーマは信仰は単純で良いんですよ、との意味です。しかし、単純であるためには勇気と決心が必要です。聖書は単純にキリストに従う事が信仰ですよと繰り返し語っています。26節の「人々を恐れてはならない。」とは、あなたにとって「人」が大事なのか、「わたし」が大事なのか、とイエス様は問うています。日本人は特に長いものに巻かれろと言うことが普通のことと考えられているところがあるので、注意が必要です。聖書的にはその意見が多いか少ないかで判断されるのではなく、正しいか間違っているか、善なのか悪なのかによって判断します。「人々を恐れてはならない」とは機会のある限り、「私はキリストの者です」と言うことを証しするように、と言う意味です。27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。 イエス・キリストの言葉こそが真理であり最後に残る言葉はイエス・キリストの言葉です。イエス・キリストの言葉を恥とするようなことがあってはなりません。
 
 
28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。 死は人間の最大の敵ですがキリストは死を滅ぼしてくださいました。ですからどのような時にも決して悪に荷担してはなりません。32節「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。私たちは天国の門でイエス様に歓迎して貰えるように、もっともっとイエス・キリストの名を人々の前に明らかにしたいと思います。
34節「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。イエス様は恒久的な平和を創るために、この地上に降り立ち、サタンとの戦いに挑みました。38節「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。確かにこの異教社会の中でイエス・キリストに全く従うと言うことは、非常に勇気が要ることであり、又迫害を受けることは間違いありません。また、過去の失敗について謝ると言うことも「自分を捨てる」事なしに出来ることではありません。プライドを捨て誤りは誤りとし良しは良しとして主に信頼していく時に私たちは何時も「手放しで喜」んで居ることが出来るのです。