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「自分を磨く」(110515ku)
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ガラテヤの信徒への手紙 2:15〜21
2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
 
 
私たちが伝道すると言う時、その理由を確認しておかなければなりません。私たちはイエス・キリストを信じている。イエス・キリストを受け入れている。これは素晴らしいことです。畑に隠されている宝を掘り当てた人々です。高価な真珠を手に入れた人々です。
これが私たちクリスチャンです。ですからお互いは仲間同士であると共に、外の人々からは貴重な存在である訳です。
マタイによる福音書
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 
一般の多くの人々はまだ、この宝も、真珠も見出していません。しかし、私たちクリスチャンはこれを手にしているお互いです。これは素晴らしいことです。多くの人生経験の中から確かにこれは宝物だと、信じ、手に入れたものでした。ですから私たちはまだこの宝を知らない人々に知らせたいというのが自然な思いであり、実際その必要がある訳です。
 
私たちは日毎に、日々新たにイエス・キリストの救いに感謝し、この喜びを隣の人にも知らせたい。その様な思いを持ち続けて行きたいと思います。
 
しかし、勿論、隣の人にイエス・キリストを伝えるためには自分自身が神様の祝福に与っている必要がある訳です。
もちろん、今現在のまま語りかけても素晴らしい効果があると思いますが、更に自分自身が福音によって成長していると言うことがあるならば、より効果のある伝道をすることが出来ます。
私たちは教会の内部ではなく、外に目を向けるならば、それはまた、自分自身に目を向けると言う事に繋がってきます。つまり、未信者の前に立つには自分自身がイエス・キリストを現している必要があるからです。
 
「自分を磨く」ということは自分のためでもあり、また未信者を救うことでもあると言うことです。
「自分を磨く」ためにどうしても必要となってくるものが、つまり、今日のテキストで述べられていますパウロの信仰です。
 
 「2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」
 
難しく書いてある所もありますが要するに、「律法の実行」とは自分の力で善を行おうとする態度であり、これについてはパウロは降参しました。自分の力で自分を救うことは出来ませんと、降伏した訳です。
ところが、あなた方は再び自分の力で自分を救おうとするのですかと、指摘している訳です。2:18「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。」とある通りです。
 
19節に「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」と言っています。つまり、神様の力によって生きるために、自分を「キリストと共に十字架につけ」死にました、と言っています。
20節、ですから「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言い切っています。
21節「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」
 つまり、再び自分の力で生きていこうとするなら、キリストの死は無駄になったことになります、と言っています。
私たちは神によって生き、神様の力によって生きるために、信仰に入りました。今になって、再び自分の力で生きていきます、と言うことがあっては成りません。
 
20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言う信仰がなければ「自分を磨く」事は出来ません。イエス・キリストに自分を明け渡すときに、自分の中にある良いものを取り出し、悪いものを捨てるという作業を進めることが出来ます。
 マタイによる福音書の13:47に「 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」
これは場面が違いますが例話として引用するのですが、神様は私たちのありのままを受け入れてくださっています。良い所も、悪い所もひっくるめて受け入れてくださいました。しかし、そこから信仰の成長を目ざしましょうと手引きをしてくださっています。「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」と言う作業です。
 
これによって私たちは死んでから天国に行くだけではなく、生きている間にも天国を味わうことが出来ます。
 「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」、この作業を継続していく為にはイエス様に自分自身を明け渡すと言うことがどうしても必要になってきます。
自我やプライドを持っている間はこの作業を続けることが出来ません。自分の思いは捨てて、イエス・キリストの思いを行う決心をする時に、この作業が進められていきます。「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」、どうぞ今日から自分磨きを初めてまいりましょう。
 
ガラテヤの信徒への手紙
3:1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。3:4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。
イエス・キリストの故に感謝して前進してまいりましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 「あなたがたは地の塩である」「世の光である」(マタイ5:13、14)とは教会の外について述べているものです。教会の内に向けるとそこは塩のききすぎた、また、明るすぎる居心地の良くない所になってしまいます。「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」(ガラテヤ6:10)、これが私たちへの奨励です。その様な土壌の中で私たちは「自分を磨く」ということに集中してまいりましょう。「自分を磨く」ということは自分のためでもあり、それはまた人々の希望となり、人々の祝福に繋がるものです。「自分を磨く」ためにどうしても必要となってくるものが、ガラテヤ2:15から述べられているパウロの信仰です。「律法の実行」(16)とは自分の力で善を行おうとする態度であり、これについてはパウロは降参しました。自分の力で自分を救うことは出来ませんと、降伏した訳です。ところが、あなた方は再び自分の力で自分を救おうとするのですかと、指摘している訳です(18)。パウロは「神に対して生きるために」自分に死にました(19)。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20)と。
 
私たちは再び自分の力で生きていこうとするなら、キリストの死は無駄になったことになります、と言っています。「人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(21)。私たちは神によって生き、神様の力によって生きるために、信仰に入りました。今になって再び自分の力で生きて行こうとするのでしょうか。パウロの信仰に立つときに私たちは「自分を磨く」と言う事を進めることが出来ます。 イエス・キリストに自分を明け渡すときに、自分の中にある良いものを取り出し、悪いものを捨てるという作業を進めることが出来ます。これによって私たちは死んでから天国に行くだけではなく、生きている間にも天国を味わうことが出来ます。そのスタートラインに立つために、すべてをイエス様に明け渡すと言うことをしていきましょう。「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。3:4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……」(ガラテヤ3:3-4)。