エフェソの信徒への手紙2:14〜16
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
今日は「キリスト者としての関係を求めている」と言うテーマですが、これは教会に於ける正しい関係について述べられているものです。これが正しいと言うことは、正しくない関係もあると言うことですが、そのようなものから私たちは成長していかなければなりません。
初めにキリスト者とはどう言うものかと言うことに付いて考えてみまょう。それは、まずキリスト者は神の言葉によって生きる者だと言うことです。第一にキリスト者は自分で自分を義とすることは出来ません。つまり「私は義とされている、あるいは罪が赦されている」と言った場合、つまり、「私は正しい行いをしてきたからだ」と言うことは出来ません。そうではなく、イエス・キリストが或いは聖書が「キリストを受け入れた者は義とされる」と言っているからです。(使徒13:39信じる者は皆、この方によって義とされるのです)
また、「キリストを受け入れた者は罪が赦される」と言われています。(使徒2:38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。)
さらに、「キリストを受け入れた者は神の子とされる」と述べられています。(ヨハネ1:12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。)
私たちの救いの確信の根拠は実に神の言葉に依存しています。そしてそれを信じていると言うことです。これがキリスト者と言うことです。
キリスト者は自分の救いと解放と義とを、自分の力で得ようとすることに、降伏しました。そして、イエス・キリストにのみ、それを求めました。そして、イエス・キリストの言葉、神の言葉を信じました。
つまり、自分で自分を義とすることはしないで、外から与えられる御言葉によって義とされています。これを外なる義とルターは言いました。
キリスト者は、全く、イエス・キリストにおける神の御言葉の真理によって生きています。
その様なキリスト者は、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)、或いは、わたしは彼の「罪を赦」した(使徒2:38)との宣言から、また「彼は神の子」である、との神の言葉によって、私たちは互いに尊重し、尊敬し合っている存在です。
エフェソ2:14に「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とあります。つまりキリスト無しに平和は成し得ないと言うことです。
生まれながらの私たち人間には、人と人との間に不和があります。兄弟への道は、自我によって妨げられています。エフェソの信徒への手紙は人と人との間には「敵意という隔ての壁」(2:14)が有ると言っています。
しかし、イエス・キリストは人と人との間の仲保者となってくださいました。そして、人間との間に平和を造りだしてくださいました。イエス・キリスト無しでは私たちは兄弟をも知らず、兄弟に行くことも出来ません。
今やキリスト者は、互いに平和のうちに生き、互いに愛し合い、仕え合い、一つになることが出来ます。
但し、これはイエス・キリストを通してのみ実現することです。イエス・キリストが不在の状態においてはこの真理は成り立ちません。
ただイエス・キリストにあってのみ、私たちは一つであり、ただキリストを通してのみ、互いに結びつけられます。
一人のキリスト者は、ただイエス・キリストを通してのみ他(ほか)のキリスト者に近づくことが出来ます。互いに尊敬し合うことが出来ると言うことです。
ですから、〈私たちが、ただイエス・キリストを通してのみ兄弟である〉と言うことは計り知れない意味をもっています。兄弟とは、キリストによって救われ、その罪を赦され、信仰と永遠の命に召された他者(たしゃ)のことです。キリスト者の交わりの基礎は、キリスト者が自分自身の中に持っている内面性や、敬虔性ではなく、キリストから来るものであり、それが私たちの兄弟としての関係を決定するものです。
キリストの言葉によって私たちは人を人として、しかも神の子として尊敬を現します。
私たちの交わりは、ただキリストが私たち両方にしてくださったことによってのみ成立します。そしてそれは、初めだけそうであって、時が経つに従って、何かほかのものが付け加えられる、と言うのではありません。また将来も永遠にそうでなければなりません。
他者との交わりを私たちは唯(ただ)イエス・キリストを通してのみ持っており、又将来もそうです。私たちの交わりが、より正しく、より深くなればなるほど、私たちの間にある一切の他のものはそれだけ後退し、私たちの間で、イエス・キリストとその御業のみが、いよいよ確かに、純粋になり、生き生きとしたものになっていきます。
このことは、キリスト者の交わりにそれ以上のものを求めようとする一切の濁った欲求を、初めから退けるものです。キリストが私たちの間に立ててくださったこと以上のことを求めようとする者は、そもそもキリスト者としての関係を求めているのではなく、ほかのところで与えられない何か特別な交わりの経験を求めているのであって、それはキリスト者の交わりの中に、不確かな、不純な欲望を持ち込もうとしていると言うことです。
妻や夫との間にキリストを立てるのでなければ、それは支配欲による関係となってしまいますし、友人との関係においても彼との間にキリストを立てるのでなければ、それは単に自分を受け入れてくれる人を増やそうとする思いから成り立っているものになってしまいます。
もし相手が未信者である場合には、そこにキリストが居られるのであれば、いつキリストについて語ろうか、とその人の救いを願って機会を逃さないようにとの思いを何時(いつも)抱いていることでしょう。私たちはキリストにあって初めて人間らしい豊かな人間となることが出来ます。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」との御言葉は私たちを永遠の喜びに導く言葉です。
エフェソの信徒への手紙2:14〜16
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
「キリストはわたしたちの平和で」す。すべての人との間にイエス・キリストを通しての関係をいよいよ純粋に、より深く持っていきましょう。その時に、私たちの間に「キリストにある平和」が実現いたします。
<要約>
「キリスト者としての関係を求めている」と言うテーマについて、これは教会に於ける正しい関係について述べられているものです。これが正しいと言うことは、正しくない関係もあると言うことですが、そのようなものから私たちは成長していかなければなりません。初めにキリスト者とは神の言葉によって生きる者だと言うことです。つまりキリスト者は自分で自分を義とすることは出来ません。そうではなく、聖書が「キリストを受け入れた者は義とされる」(使徒13:38、39)、「キリストを受け入れた者は神の子とされる」(ヨハネ1:12)と言っているから義とされ神の子とされています。私たちの救いの確信の根拠は神の言葉に依存しています。それを信じている人がキリスト者です。その様なキリスト者は、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)、或いは、わたしは彼の「罪を赦」した(使徒2:38)、「彼は神の子」である、との神の言葉によって、私たちは互いに尊重し、尊敬し合っている存在です。私たちはキリストの故に人を尊重し、平和を実現しています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)とある通りです。生まれながらの私たちは、人と人との間に不和があります。兄弟への道は、自我によって妨げられています。エフェソの信徒への手紙は人と人との間には「敵意という隔ての壁」(2:14)が有ると言っています。しかし、イエス・キリストを信じる者はキリストの故にそれらの敵意を放棄いたします。今やキリスト者は、互いに平和のうちに生き、互いに愛し合い、仕え合い、一つになることが出来ます。
但し、これはイエス・キリストを通してのみ実現することです。イエス・キリストが不在の状態においてはこの真理は成り立ちません。私たちの間にイエス様に来て頂いている時に私たちは互いに交わりを持ち尊重し合うことが出来ます。このことは、キリスト者の交わりにそれ以上のものを求めようとする一切の濁った欲求を退けるものです。キリストが私たちの間に立ててくださったこと以上のことを求めようとする者は、そもそもキリスト者としての関係を求めているのではなく、ほかのところで与えられない何か特別な交わりの経験を求めているのであって、それはキリスト者の交わりの中に、不確かな、不純な欲望を持ち込もうとしていると言うことです。「キリストはわたしたちの平和で」(エフェソ2:14)す。すべての人との間にイエス・キリストを通しての関係をいよいよ純粋により深く持っていきましょう。その時に、私たちの間に「キリストにある平和」が実現いたします。