さて、今日は「自立」と言う事について考えたいと思います。ほとんどの人は「自分は自立している」と考えておられると思いますが、しかし、それにしては失敗をしたり、後悔をしたり、あるいは、不安な時があったり、心配でたまらないと感じる事はないでしょうか。
「自立」するとは本当はどう言うことなのでしょうか。「自立」とは漢字では自分で立つと書きますが、赤ちゃんは、勿論自立はしていませんが、でも一年位で自分の足で立つようになりますが、だからといって自立しているとは、まだ言えません。なお、親に依存している部分が多くあります。
では、20歳を過ぎて、また、親の家を離れて生計を自分で管理するようになれば「自立」と言う事になるでしょうか。勿論、社会的には自立したという事が言えますが、しかし、今日は深い意味での自立と言うことを考えてみたいと思います。
例えば、「明日は仕事だから早く休もうと思っていたが、面白いテレビ番組があったので夜更かししてしまった。」と言う事があったとします。
この時、自分の意志は「早く休む」と言う事でしたが、結果はそうはならなかったことになります。本当の自立とは、自分が計画したことを、その通りに実行することが出来た時に「自立している」と言う事が言えます。
「自立」を妨害するものに、人間本来の欲求というものがあります。これは「欲動とか、衝動、本能」と呼ばれるものです。これらの欲求が満たされていないと計画や、意志を貫(つらぬ)くことが出来ないと言う事があります。
しかし、すべての人はこの欲求を満たし続けることはできないものです。ですから如何に、この欲求をコントロールすることが出来るかに掛かっている訳です。
ところで、欲動の一つに「自己実現」がありますが、これは誰もが望んでいることです。自分で立てた目標が実現する時に、人は満足を覚えることが出来ます。ですから、この自己実現のために忍耐すると言うことが出来る訳です。
しかし、この忍耐も長く続けることが出来ません。ですから他の欲動を満たすことによって、忍耐をしようとします。つまり、人間社会には常にストレスが掛かっていると言うことです。そして、このストレスを解消する必要があると言う事です。
このストレス解消の中にはお酒を飲むことや、その他の娯楽などがある訳です。
つまり、人は何かに依存していなければ自立することが出来ないということが分かります。しかし、その依存するものが不安定な場合、更に問題を引き起こす元となっています。例えば、お酒に依存するならばアルコール依存症になってしまったりと言うことがある訳です。また、娯楽のためにお金を使い過ぎて、生計が逼迫(ひっぱく)したりします。
初めに赤ちゃんは親に依存しているので自立はしていないと言いましたが、しかし、考えてみますと、子供には平安があり、安定した生き方をしています。それは、親が必要を満たしてくれるという信頼があるからです。
ところが、大人になると、子供の時のような信頼するものがなくなってしまうために、不安や、恐れに襲われることが起こってきます。ですから子供の方が返って「自立している」と言うことも言える訳です。
大人には子供のような平安を保つことは出来ないのでしょうか。
聖書には「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)とあり、人は神と共に生きる存在です、と教えています。幼い時には親に依存しているので平安がありますが、大人になったならば「神」に依存することによって平安を得るようにと教えています。
つまり、人は初めから「依存症」として造られています。人は何かに依存していなければ生きられない存在です。人は不安定なこの世のものに依存するために、不安と問題を引き起こしています。
しかし、人は本来、神に依存すべきものとして造られているものです。「神に依存する」と言うのが正しい依存のあり方です。
イエス・キリストは言いました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)。
イエス・キリストに全てを委ねていく時に私たちは変わることのない平安を取り戻すことが出来ます。
「自立する」と言う事について考えてきましたが、「自立する」と言う事は「自分に勝つ」と言う事でもあります。この世で「一番征服しがたいものは、自分である」とも言われています。
しかし、「神依存症」になるならば「自分に勝つ」ことができます。つまり「神依存症」になると言う事は、自分の主導権を「イエス・キリスト」に明け渡すことになるからです。今までは自分の行動は自分で決めていましたが、主導権を「イエス・キリスト」に明け渡すことによって、自分は居なくなって、イエス・キリストの性質を表すようになります。
先ほど人は常にストレス解消をする必要があると言う事について述べましたが、「神依存症」になる事によって、もはや人生においてストレスを感じることはなくなります。人はイエス・キリストの性質を実行するものとなりますので、もう建て前と本音のようなギャップは無くなっているからです。勿論「忍耐」と言う言葉も過去のものとなっていきます。
当たり前のことを当たり前にしているだけなので、そこに負荷は発生いたしません。
何と素晴らしい世界でしょうか。神様は私たちにイエス・キリストを通して「神依存症」になることができる道を、備えてくださいました。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントU5:17)と聖書は述べています。ストレスの生じない新しい人生がスタートいたします。
イエス・キリストを迎え入れることによって本当の自立を実現することが出来ます。イエス・キリストと共に歩む勝利の人生を歩まれますようお薦めいたします。