私は最近「輝いた目を取り戻す」と言うことを目標として、出来るだけ注意をしようと、心掛けているのですが、皆様はそのようなことに関心を持ったことがあるでしょうか。
私は輝いた目と言いますと、直ぐに思い浮かべるのが牛の目です。と言うのは私が子供の時の役割は、牛を散歩させることでしたので、牛の目をじーーと見つめることがありました。牛の目は大きくて、澄んでいて覗(のぞ)いている私の顔が写っているのが分かるほどです。
牛の目が何故そんなに澄んでいて、また輝いていると言っても良いと思いますが、そのような美しい目をしているのでしょうか。今考えてみますとその理由を次のように言うことが出来ると思います。第一に牛には二心が無いと言うことです。牛は飼い主を信じていますし、疑うようなことはありません。牛は純粋ですと言うことができます。第二には第一と同じ意味になりますが不安、心配がないと言うことです。飼い主を信じていますから不安に思うようなことはありません。
このような理由から牛の目は澄んでいて輝いているのだと思います。
更に、輝いた目を持っている者に幼子の目を挙げることが出来ます。赤ちゃんから就学前位までの子供さんの目は澄んでいて輝いていると言えます。何故、幼子の目がそんなに澄んでいて輝いているのでしょうか。その理由はやはり先程言いました、牛の目が輝いてるのと同じです。純粋で、疑うことをしないし、すべてを信じていると言うことです。そのような純粋さが澄んだ目と輝いた目となっています。
さて、聖書には輝いた目について次のように記されています。(マタイ6:22)「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、:23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
また、次のようにあります。(ルカ11:34)「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
これはイエス様の言葉ですが、イエス様は「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」といっています。目が輝いているのか、濁っているのか、目の輝きはすなわち心の輝きであり、目が濁っていれば、すなわち心が濁っているのですと言っています。
イエス様は「あなたの目が濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」と言っています。
さて、目の濁り、心の暗さは何を意味しているのでしょうか。実は神様は全ての人に、祝福に祝福を加えようとしておられるのですが。目が濁っている人にはその祝福を届けることが出来ません。なぜならば濁った目はつまり、神の祝福を拒んでいることを現しているからです。
神の祝福を受け取るには、二心が無く、疑いを捨て全てを信じる純粋さが必要です。
イエス様は「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言いました。つまり心の中の光が消えていたなら神様の祝福を受け取れなのだから、心の濁りの原因を早く調べてその原因を取り除きなさい、と言っています。
心の濁り、それは繰り返しになりますが疑う心や不安や心配事、悪い思い、つまり自己中心的な欲求などを挙げることが出来ます。
聖書はこのような人間の心の葛藤について次のように説明しています。
(ローマ7:14〜21)「7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、・・・そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」
聖書は人は良いことをしようとするが、人にはもう一つ罪の法則があって、心の葛藤があって結局、望まない悪を行っていると言っています。
このような心の状態が、私たちが初め幼い頃に持っていた輝いた目から、その光を失わせています。
では、どうしたらこの悪い思い、罪の法則を取り除くことが出来るのでしょうか。罪の法則とはつまり、心にある傷と言うことができます。この心の傷は親から子へ子からまたその子へと伝えられているものです。
更に、学校で虐(いじ)めに遭(あ)ったり、社会において拒否され、或いは争いがあったりと、否定的な出来事が続くことによって心の傷となっていきます。この心の傷が、良いことをしようと思っても、それをすることが出来ず、返ってしては行けないと思う悪いことをしてしまう状態にさせています。
そのような心に巣食っている罪を自覚し、悔い改めてイエス・キリストを迎え入れることによって、その心の傷を癒すことが出来ます。イエス・キリストはご自分を十字架に付けた人々に対して「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのですから。」(ルカ23:34)と言って、自分の命を奪おうと言う人々に対して愛を示されました。
今、罪の法則はキリストの愛の法則によって飲み込まれようとしています。どんな人でも、誰であっても、キリストの愛の法則の前にその罪の法則を取り除くことが出来ます。
現在は、この罪の法則と愛の法則の戦いの中にありますが、ついにはこのキリストの愛の法則の中に完全に飲み込まれる事になります。
どうぞ心の傷をイエス・キリストによって癒して頂き、良いと思うことをすることが出来、悪いと思うことを拒否することが出来るようになり、心の葛藤から解放され、輝いた目を取り戻すことが出来るようにと、お薦めいたします。
聖書は今の時代を「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントU6:2)と言っています。心を開いてイエス・キリストを迎え入れられますようお薦めいたします。