7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
ノルウェーのノーベル賞委員会は10月10日パキスタン人マララ・ユスフザイさんにノーベル平和賞を授与すると発表しました。彼女は11歳の時から女性が教育を受ける権利についてブログを通して訴えてきました。
ところが2012年10月9日15歳の時にテロリストに銃撃され意識不明の重傷を負いましたが奇跡的に回復して、その後は人権活動家として特に子供の教育を受ける権利について訴えています。
国連は彼女の誕生日である7月12日を「マララ・デー」と名付け2013年の彼女の16歳の誕生日にニューヨークの国連本部で演説するよう招き、反響を呼びました。
彼女がノーベル平和賞を受賞したことは素晴らしい事ですが、17歳にしてこのような過酷で、また波乱に満ちた人生に至っている事については、人間社会の理想に向かっての途上であることを現しています。
17歳のまだ未成年者である彼女が世界の平和を求めて活動しなければならない現状は、裏を返せば、人間社会はひどく病んでいる、と言うことに成ります。
人間の今の状態とはどういう状態なのでしょうか、人間の真実の姿について聖書は的確に述べています。ローマ7:15「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」
つまり、良いと思うことをしないで、悪いと思うことをしてしまうと言うことです。
更に聖書は述べています。「7:19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」
本来は人は良いと思うことを実行し、悪いと思うことを止めるべきなのです。どうしてそうならないのでしょうか。
それは、人はその人生の中で、その多くの人生の場面に於いて「傷」を負っているからです。人の中には生まれて来たこと自体を否定されて、「生まれてこなかった方が良かった」と言って自分を肯定的に受け取ることが出来ない人も居ます。
人は家庭で傷付き、、学校で傷を負い、会社でつまずき、社会に受け入れられなかった、と言って自分は愛されていないと、その心が病んでいる人が多く居ます。
そのような人が「良いと思うことをしないで、悪いと思うことをしてしまう」と言っても責めることは出来ないのではないでしょうか。心が傷付いているのですから、「良いと思うことを実行し、悪いと思うことを止める」と言うことが出来ない状態に陥っているのです。
人の現状には、多かれ少なかれ次のようなことが言えます。つまり、満足がない、平安がない、目標がない、意志が弱い、自信が無い、不完全である、安定がない、自己中心である。これが人間の現状である訳です。その大元(おおもと)は傷付いていると言うことです。
しかし、喜んでください、この傷を癒してくださる方が来られました。その方こそイエス・キリストです。
聖書の初めの創世記1:1には「初めに、神は天地を創造された。」とありまが、科学者も宇宙はビックバンによって始まったと言っています。
また、哲学者も始まったものには必ず原因があると言っています。宇宙がビックバンによって始まったとするならば、そのスタートには原因が必要です。つまりビックバンをスタートさせた意志が無ければ成りません。これこそが創造者である神ご自身です。
創世記1:2には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」とありますが、神の霊はビックバン以前からあり、今も世界は神の霊で満ちています。
神は人間の病める状態を御覧になって2千年前にその救済者、救い主イエス・キリストを世に送りました。
イエス・キリストは神と人との正しい関係について証言しました。また神の人に対しする大きな愛について自らの命をもって現しました。それが、イエス・キリストの十字架による死です。
人はイエス・キリストの代償を通して傷が癒され、創造の初めの神と人との正しい関係が回復されます。
人はなぜ傷付き、心が混乱し満たされない状態に陥っているのでしょうか。その原因は「人は神から離れている」。これが根本の問題です。
本来人は神によって造られた被造物ですから、その創造者である神に愛され、また、神と共に生きる者として造られました。
つまり、人は神無しでは生きられない存在なのです。それにも拘わらず長い間、自己中心的に神無しで生きてきた人間は、多くの人生場面で互いにきづ付け合う者と成ってしまいました。
今こそ私たちは帰るべき所に帰る時が来ています。その方法は、今までの罪を悔い改めイエス・キリストを救い主として受け入れ、後(のち)の生き方を神に喜ばれる生き方へと改める決心をすることです。
その時にこそ、「人は良いと思うことを実行し、悪いと思うことを止める」事の出来る、自立した本来の人間に立ち帰ることが出来ます。そして社会は誰もが幸福と、平和と平安が保たれる社会と変えられて行きます。