私は士官になる事によって仕事は180度変わり、生活も変わりましたが、人間そのものは、そんなに変わっていないと言う事を自覚していました。信仰による人間の変化、変容と言うことについては常に生涯の課題としていたものです。ところが感謝な事に2008年にその答えを頂くことが出来ました。まことに、マタイ7:7に 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」と有るように、求め続ける者にイエス様は応えてくださいます。
救世軍ではこの経験を聖潔と言っていますが、詳しくは分かりませんが仏教では「無の境地に至る」とか「悟りを開く」と言うのではないかと思います。だいぶ以前にテレビで永平寺の紹介をしていましたが、その中でお坊さんが「曲がって置いてあるスリッパを見て、そのまま通り過ぎることが出来る人は、心が曲がっているからだ」と言っていました。実に分かり易い話しだと感心していました。人は大事(だいじ)に対しては気を使いますが、小さな事には気を遣おうとしません。スリッパが曲がって置いてあっても我関せず、ですし、電車に乗っていてお年寄りが乗ってきても、知らんぷり、です。
私も以前は、「席を譲ろうと思うが、なんか目立つし恥ずかしいな」とか、「直ぐに降りますから大丈夫です、とか言われたら恥をかくしな」、とか、いまいちぎこちない状態でした。しかし、聖潔を受けてからは自分がどう思われるだろうというようなことは余り気にならなくなってきました。いずれにしても人は皆、心が曲がっているというか、心が傷付いているために、小さな事に気を遣うゆとりがありません。忙しい忙しいで心にストレスが溜まるばかりです。
心が曲がっている、心が傷付いている、これが全ての人が持っている病気です。傷付いた心を癒して頂く、この事がすべてのことに対して依り重要で優先しなければならないことです。傷付いた心を癒すことが出来るお方はイエス・キリストのみです。曲がった心、傷付いた心を癒して頂かなければ人は本当の幸福を味わうことが出来ませんし、地上に真の平和は実現いたしません。
今日は「世俗の中にある天国」と言うテーマを付けましたが今述べました心の傷を100%癒して頂いたときに、そこに天国が実現いたします。ですから街の雑踏の中でも、家庭や、職場にいてもそこに天国は存在出来ます。
さて、もう一つの天国が聖書の創世記に記されています。2:8「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。2:9主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ」た。
つまり、最初の人アダムとエバをエデンの園つまり楽園に住まわせました。勿論彼らは神と共に生き、神様の言葉に従うことは当たり前で、何の疑いも持ちませんでした。彼らは幼子がその親を信頼して全く依存しているように、アダムとエバは神様と共に生きていました。実はここに天国が存在しています。人は皆神と共に生きるとき、そこは天国となる訳です。
ところが神無しで、自分の思いだけで生きようとしたときに天国は失われ、そこにはあらゆる悲しみと争いと誘惑がやってきます。
この地上は安住の場所という訳には行かなくなった訳です。しかし、幸いなことにもう一度エデンの園、楽園に帰る道をイエス・キリストが備えてくださいました。人は誰でもイエス・キリストを通してもう一度楽園に帰ることが出来るようになりました。ですから聖書は(コリントU6:2)「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と述べている訳です。
聖書はまた次のようにも述べています。(ヨハネの手紙T3:8)「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」 、この地上はサタンによって支配されていますが、サタンは滅ぼされ、まもなくこの地上は創造の初めである楽園に回復されようとしています。しかし、勿論世界が楽園になる前に、私たちの心に巣食っている悪魔を滅ぼさなければなりません。そのためにこそイエス様は私たちの世に来てくださいました。
聖い世界ありがとうイエス様
聖い心ありがとうイエス様