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-あなたの罪を思い出さない- 前へ / 後へ -キリストが私と他者との間に立ちたもう-
「肯定」(120122ku)
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ルカによる福音書 18:15〜17
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 
肯定とは、国語辞典では次のようにあります。・・・述語とそれに係る要素とで表される意味内容を、そのとおりだと判断し認めること。一般に、同意すること、価値があると判断すること。反対語が「否定」とあります。
 
先日ラジオを聞いていましたら、人を信頼する人、つまり物事を肯定的に見る人は長生きで、批判的、否定的に見る人は短命であるという調査結果があります、とのことでした。
その後気付いたのですが、自分は何と物事を否定的に見ているではないかと言うことでした。目標としては神様を信頼して希望を持って前向きに生きよう、と努めているのですが、実際とのギャップがまだまだ大きいと言うことです。
ラジオやテレビでニュースを聞いていて、「それは違う」とか、「ひどいことをしている」とか、そう言うことばかり心の中に沸いてきます。
 
自分は正しく、人は皆間違っていると考えるのが基本になっています。
実際に出会う人々に対しては、かなり肯定的に、また受容できるようになってきたと思いますが、ラジオやテレビで伝えられる人々については、直接的に繋がりがないためと思いますが、簡単に批判的な思いを抱いてしまいます。
私たちは実際に出会う人々に対しても敬意を持って、更に肯定的に接していくべきですが、更にテレビやラジオに出て来る人々や話題についても肯定的に見ていかなければなりません。
 
イエス様は何と言っているでしょうか。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18:16-17)
第一に「子供のように神の国を受け入れる人」と言うことです。子供が第一に受け入れているのは、親を受け入れていると言うことです。更にすべてを受け入れていると言っても良いでしょう。
 
イエス様はパリサイ派の人々や、律法学者を批判しましたが、それは彼らが悔い改めることを願ってのことでした。イエス様は世界の造り主ですから、イエス様にとって社会の出来事すべてが他人事ではないと言うことです。
私たちは実際に接する人々に対しては勿論ですが、実際に接することのない、新聞やテレビやラジオで報道されている人々に対しても豊かな愛情を示さなければなりません。
 
誤りは正されなければなりませんし、社会は常に改善されていかなければなりません。しかし、当事者自身は皆、神の形に造られた唯一の存在ですから愛情と敬意とを示す必要があります。
 
孔子の論語にも
「躬(きゅう)自ら厚くして、人を責むるに薄ければ、すなわち怨みに遠ざかる」と言うのがあります。
  (自身を責めることが厳重で、他人を責めることが寛大であれば、人をも怨まず、人からも怨まれないものぞ)
「人を責むるに薄ければ」と言うのは今日のテーマに即していると思います。
 
テレビやラジオ、新聞などのマスメディアは事件を伝える媒体ですからどうしても世の中を批判的に伝えると言うことになります。現代人はマスメディアを通してすべての人がマインド・コントロールされていると言って良いと思います。すべての人が物事を否定的に見るのが当たり前のようになっていると言っても良いかもしれません。
ですから注意してそのような否定的な見方をしてはいけないと言うことを、繰り返し思い起こす必要があります。私たちの基本的姿勢は「肯定」と言うことです。批判や否定ではなく受容と肯定です。
この場合にも次の御言葉は真理です。テサロニケの信徒への手紙T5:15「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
 
5:18 の「どんなことにも感謝しなさい。」とは、文字通りすべての事を受容し肯定しなさいと言う意味です。それは批判や否定的な思いがあったならば感謝の思いを作り出す事が出来ないからです。どんなことにも感謝するためには、どんなことにも肯定する必要があると言う事です。
実際、自分自身の心の健康、身体の健康にテサロニケの信徒への手紙Tの御言葉は寄与すると思います。「いつも喜んでいなさい。:17 絶えず祈りなさい。:18 どんなことにも感謝しなさい。」
 
第二にマタイによる福音書5:37に「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。」とあります。「然り」とは、そうだ。その通りだ。と言う意味です。「否」とは、いいえ。いや。そうでない。と言う意味です。
イエス様が言われた意味は出来る事は出来る、出来ない事は出来ないと言いなさいという事でした。なんとか良く見せようと努めたり、出来るのに、謙遜を装って出来ないと言って見たりと、あれやこれや気を使うなと言う意味です。つまり素直(すなお)とか、ありのままの自分で居なさいという事です。
 
嬉しい事は嬉しいし、悲しい事は悲しいと言う事でいいですよという事です。勿論ここでは、依り嬉しい方にシフトするようには努めたいと思います。「いつも喜んでいなさい。:17 絶えず祈りなさい。:18 どんなことにも感謝しなさい。」と言う事は意識していたいと思います。
ここで特に注目したい事は、小隊の信仰テーマに上げています、感謝と希望と歓喜によって生きる、と言う事です。
 
エレミヤ書29:11は「あなたたちのために立てた計画(は)平和の計画で(あり、)将来と希望を与えるものである。」と言う事でした。また、ヨハネによる福音書10:10は「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言う事です。
今年の救世軍のテーマの聖句は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)です。クリスチャンにはすべてにおいて希望とが約束されています。
 
ローマの信徒への手紙8:35では「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」37節「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」とあります。イエス様は私たちがどこにいても「輝かしい勝利を」約束してくださっています。
 
これらの御言葉が示すものは、祝福であり、勝利であり、これが聖書全体が指し示しているものです。ですから私たちは「感謝と希望と歓喜によって生きる」と言う事を目標としている訳です。
そして、その事を私たちは子供のように単純に、その喜びを現す者でありたいと願います。
「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。」(マタイ5:37)とある通りです。
 
私たちの目標は金魚(歓喜)になる事であり、ガン(鳥)(高価)になる事であり、猫(自磨く)になる事です。
 
イエス様は私たちが歓喜に溢れて生きるために、その尊い御業を実現してくださいました。
すべてを肯定し、「どんなことにも感謝し」(テサT5:18)、豊かな人生を与えられている事を喜び、「然り、然り」と歓喜に溢れて生きる者でありたいと思います。
 
 
 
 
<要約>先日ラジオで人を信頼する人、つまり物事を肯定的に見る人は長生きで、批判的、否定的に見る人は短命であるという調査結果があります、と言っていました。その後気付いたことは私自身物事を否定的に見ていると言う事でした。特に実際に遭う事のないラジオやテレビでニュースになっている事などについてです。自分は正しく、人は皆間違っていると考えるのが基本になっています。私たちは実際に出会う人々に対して心を開き敬意を持って接し、更にテレビやラジオに出て来る人々に対しても肯定的に見、敬意を払わなければなりません。イエス様は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(ルカ18:16)と言っています。子供が第一に受け入れているのは親ですが更にすべてを受け入れていると言っても良いでしょう。イエス様は世界の造り主ですから、イエス様にとって社会の出来事すべてが他人事ではありません。私たちはすべてのことに対して豊かな愛情を示さなければなりません。人は皆、神の形に造られた唯一の存在ですから愛情と敬意とを示す必要があります。孔子の論語でも「躬(きゅう)自ら厚くして、人を責むるに薄ければ、すなわち怨みに遠ざかる」(自身を責めることが厳重で、他人を責めることが寛大であれば、人をも怨まず、人からも怨まれないものぞ)と言っています。テレビやラジオ、新聞などのマスメディアは事件を伝える媒体のため世の中を批判的に伝えることになっています。現代人は皆マスメディアを通してマインド・コントロール(思考が)されています。ですから注意して否定的な見方をしてはいけないと言うことを、繰り返し思い起こす必要があります。私たちの基本的姿勢は「肯定」と言うことです。批判や否定ではなく受容と肯定です。
 
テサロニケT5:16では「いつも喜んでいなさい。:17絶えず祈りなさい。:18どんなことにも感謝しなさい」とあります。「どんなことにも感謝」するためには、すべての事を受容し肯定しなければなりません。マタイ5:37には「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」とあります。「然り」とは、そうだ。その通りだ、と言う意味です。「否」とは、いいえ。いや。そうでない、と言う意味です。イエス様が言われた意味は出来る事は出来る、出来ない事は出来ないと言いなさいという事でした。嬉しい事は嬉しいし、悲しい事は悲しいと言う事でいいですよという事です。すべてを肯定していくならばすべての時に喜びに満たされます。ですからその喜びを「然り、然り」と単純に現すことが出来るように努めてまいりましょう。