ヨハネの手紙 V 1〜4
3 兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。4 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。
今日は人と人との関係について学んでいきたいと思います。人と人との関係は私たち人間の最大の課題ということが出来ます。聖書は旧訳、新約合わせて1982ページありますが、実に聖書は人と人とが如何に平和に過ごすかと言うことについて教えているものです。ですからいかに難しいかとも言うことができます。
創世記では、アダムとエバの創造から次の代のカインとアベルの時には既に殺人事件が起こっている分けですが、このようなことからも人間関係の重要さを伺い知ることが出来ると思います。
キリスト教書の古典と言われているものに、ボンヘッファー著「共に生きる生活」と言う本があります。この本はタイトルでも分かるように人と人との関係について述べているものです。更に勿論それはクリスチャンとクリスチャンとの関係についてのものです。
彼は牧師研修所の責任者としてキリスト者の共同生活の体験からこの書を著しました。ですから少々難しいかなという所はありますがしかし、勿論理解できないものではありません。
さて彼が言わんとしている点は人と人との交わりには「霊的な交わり」と、「人間的な交わり」があると言う点です。また、「霊的な愛」と、「人間的な愛」があると言っています。そしてこれは本人も気付かないで、神の愛を行っていると信じている事があると言うことです。つまり、本人はこれが神様に喜ばれる行いだと信じて行っているのですが、しかし、事実は人間的な思いから行われていることで信仰とは何の関係も無いと言う事がある、と言うことです。
以下に本文を引用いたします。
「すべての霊的な現実の根拠は、明確な、イエス・キリストにおいて啓示された神の言葉です。」つまり、霊的な現実とは神の言葉に根ざしたものかどうかと言う事によって分けられると言う事です。
「すべての人間的な現実の根拠は、人間の心の暗い、濁った衝動と欲望です。」つまり、人間的な現実とは濁った衝動と欲望から行われていることで、その思いは人の前に明かすことの出来ないような、心の暗い部分から発生したものですと言う事です。
「霊的な交わりの根拠は真理であり、人間的な交わりの根拠は欲望です。」つまり、神の真理の中での交わりなのか、それとも、欲望や自己保存や防衛と言うような本能的なものを土台とした交わりなのかによって「霊的な交わり」なのか「人間的な交わり」なのかが分けられると言う事です。
「霊的な交わりの本質は、光であり、人間的な交わりの本質は、暗黒です。」つまり、霊的な交わりは光であり、全てがガラス張りであり、暗い部分が存在しない交わりと言う事です。一方人間的な交わりの本質は、暗黒であり、いろいろな人間的な思いが交錯(こうさく)している状態です。
「霊的な交わりは、キリストによって召された者達の交わりであり、人間的な交わりは、敬虔な人たちの交わりです。」つまり、霊的な交わりは、本来的なクリスチャンの交わりですと言うことですが、クリスチャンと言ってもその本質に至っていない場合もあると言うことです。また、人間的な交わりは、敬虔な人たちの交わりです、と言っていますが、ボンヘッファーは敬虔な人について次のように説明しています。一般に敬虔な人と言うのは尊敬に値する人と見られていますが、ボンヘッファーはこれを偽善としています。福音書に記されている律法学者やファリサイ派の人々が人前で「見せかけの長い祈りをする」(マタイ23:14)とあるように敬虔と言うのは人間が考えた理想であって、霊的な現実ではありませんと述べています。つまり、信仰深い態度というのはこのような態度ではないか、と頭で考えた態度である訳です。それは深い信仰によって現れてきたものではない分けです。本来は信仰の人は悔い改めの時には神妙な態度を取りますが、悔い改めに対して与えられるものは赦しと受容ですから、悔い改め以外の場合は深い信仰によって現れてくるものは本来は喜びである訳です。しかし、喜び一杯で居る人を人は敬虔な人とは言いません。ですから敬虔な人というのは信仰とは何の関係もないもので、ボンヘッファーはハッキリと偽善であると断じています。
「霊的な交わりの中には、互いに兄弟として奉仕しあう明るい愛であるアガペーが生き、人間的な交わりの中には、敬虔な、あるいは不敬虔な衝動に動かされる暗い愛であるエロースが燃える。前者には、秩序のある、兄弟としての奉仕があり、後者には、享楽を求める無秩序な欲望がある。前者には、お互いに兄弟としての謙遜な従属があり、後者には自分の欲望に、謙遜に見えながらその実は高慢に、兄弟を従属させることがある。霊的な交わりには、ただ神の御言葉だけが支配しており、人間的な交わりには、御言葉と並んで、特別な力と経験と質素を持った暗示的・魔術的なものが支配している。前者では、ただ神の御言葉だけが結びつけ、後者では、御言葉のほかに、人間が自分自身に結びつける。前者では、すべての力と栄誉と支配とは、皆聖霊に捧げられ、後者では、個人的な性格の力と影響の及ぶ領域が、求められ、育てられる。つまり、そこにはただ人間的なものだけが残っている。したがって、前者においては聖霊が支配し、後者においては人間的な技術と方法とが支配する。」
「つまり、霊的な交わりにおいては、お互いの間の『直接的な』関係は、決して、どのような状態においても、存在しないが、他方、人間的な交わりにおいては、肉体が直接的な結合を求めるように、ほかの人間の魂との直接的なふれあいを求める。そこには、深い、根源的に人間的な熱望が働いている。このような人間の欲求は、『われ』と『汝』との完全な〈融合〉を求めている。そのことは、自分の力と影響を及ぼす領域の中へ他人を強いて入れる時に起こることです。」
ボンヘッファーが言わんとしていることは、つまり、今日のテーマであります正しいキリスト者の関係とは「キリストが私と他者との間に立ちたもう」と言うことです。これを超える時に交わりは崩壊を始めることになりますよ、と警告している訳です。つまり、クリスチャンの交わりが人間的な交わりに置き換えられてしまうならばその行き着く所は分裂と崩壊ですと言う事です。
次に、「人間的な交わり」と同じように、「人間的な」隣人愛があります、と述べています。引き続き引用いたします。「同じように、『人間的な』隣人愛が存在します。それは大きな犠牲を払うこともでき、しばしば熱烈な献身と目に見える成果において真正なキリストの愛に勝ることがある。それは、圧倒的・熱情的な雄弁をもって、キリスト教的な言葉を語るのです。しかし、使徒パウロは次のように言っている。『全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、(キリストの)愛がなければ、わたしに何の益もない』(コリントT13:3)。
人間的な愛は、自分自身のために他者を愛し、霊的な愛は、キリストのために他者を愛します。したがって人間的な愛は、他者との直接的な触れ合いを求め、他者を、自由を持つものとしてではなく、自分につながれているものとして愛し、あらゆる手段をつくして、利益を得ようとし、奪おうとし、支配しようとする。人間的な愛は、真理をあまり重んじないで、それを相対化する。
霊的な愛と人間的な愛の違いは第一に、人間的な愛は、不真実となった交わりを精算することに耐えることができません。」つまり、真理から逸(そ)れてしまった交わりについては神はそれを終わらせるよう命じます。そして再び真実の交わりを求めるようになることを待つようにと命じます。ところかが人間的な愛は、その人が真理に生きることを求めているのではなく自分との関係を深めたいという目的のために愛を注ごうとしているので、そこに真理が失われてもなおもその関係を続けようとしてしまう分けです。
「また第二に、人間的な愛は、敵対する者、頑強に愛に手向かう者を愛することができない。人間的な愛は、その本質において、欲求であり、しかも人間的な交わりへの欲求であるので、」自分に対して攻撃をしてくる者、迫害してくる者を愛することが出来ません。ところが霊的な愛の人は敵対する人に対してもその人が回心することを願って愛を注ぎ続けます。
「霊的な愛は、キリストから来る。この愛は、キリストにのみ仕え、他者に近づくどのような直接的な道をも知らない。キリストが、わたしと他者との間に立ちたもう。わたしの人間的な欲望の中から育って、出て来る愛によっては、この愛を理解することが出来ない。霊的な愛はキリストの言葉、御言葉によってのみ注がれるものだからです。
人間的な愛についての一般的な概念によっては、他者への愛とはどう言うものであるかと言うことを前もって知ることはできない。ただキリストだけが、愛とは何であるかをそのみ言葉において、私に語りたもうであろう。イエス・キリストは、およそ私の意見や確信に反して、兄弟に対する愛とは本当はどう言うものであるかを、わたしに語りたもう。
だから、霊的な愛は、ただイエス・キリストのみ言葉にのみ束縛される。キリストがわたしに、愛のゆえに交わりを保つことを命じるところでは、わたしはその交わりを保とうとする。キリストの真理が、愛のゆえに、わたしに、交わりをやめることを命じるところでは、わたしの人間的な愛のあらゆる抗議にもかかわらず、わたしはその交わりをやめる。
霊的な愛は、欲求せずに仕えるゆえに、この愛は、敵をも兄弟のように愛する。この愛は、」兄弟の善し悪しに依って愛するか愛さないかが判断されたものではなく、また敵対者だから、あるいは仲間だからと言う判断から生まれたものでもない。
「ただキリストとキリストのみ言葉から生まれ出る愛です。人間的な愛は、霊的な愛を決して理解することができない。なぜなら、霊的な愛は上からのものであり、すべてのこの世的な愛にとって、全く別のもの・新しいもの・理解不可能なものなのです。」
ルカ 17:9 に「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」とあるように、つまり「しなければならないことをしただけです」と言うように、キリストとキリストの言葉に単純に従うと言うのが、霊的な交わりであり、霊的な愛であると言うことが言えます。
ボンヘッファーの説明をもう一度繰り返しましょう。「霊的な愛は、ただイエス・キリストのみ言葉にのみ束縛される。キリストがわたしに、愛のゆえに交わりを保つことを命じるところでは、わたしはその交わりを保とうとする。キリストの真理が、愛のゆえに、わたしに、交わりをやめることを命じるところでは、わたしの人間的な愛のあらゆる抗議にもかかわらず、」つまり、人間的な愛は自分との関係を深めたいとの欲求のために霊的な愛に対して抗議する分けです。
「霊的な愛は、わたしの人間的な愛のあらゆる抗議にもかかわらず、わたしはその交わりをやめる。霊的な愛とは、ただキリストとキリストのみ言葉から生まれ出る愛です。」
ですから愛とは私の思いを実行することではなく、ただキリストに仕えることが愛です、と言うことが出来るわけです。
ボンヘッファーの説明を続けましょう。「キリストが、わたしと他者との間に立ちたもうゆえに、わたしは、他者との直接的な交わりを望むことは許されない。それは、わたしがキリストによってのみ、助けを受け取ることが出来るのと同じように、ほかの者にとっても、ただキリストご自身からのみ、助けを得ることができるからです。」キリストとその他者との間に私が入り込むことは、その他者の助けの障害となってしまうと言う事です。
「このことが〈わたしが、他者をわたしの愛をもって強制し、支配しようとするすべての試みから、他者を解放しなければならない〉と言う意味です。わたしから解放されて、他者は、ありのままの彼として神に愛される。すなわち、キリストがそのために十字架の上で死に、甦ってくださり、そのためにキリストが罪の赦しを贖いとり、永遠の生命(いのち)を備えてくださったからです。
わたしが行動を始めることができるより前に、キリストはわたしの兄弟に既に決定的に働きかけてこられたので、わたしは、兄弟をキリストのために自由にしておかなければならない。兄弟は、キリストにある者としてのみ、わたしに出会わなければならない。」つまり、兄弟はキリストと深く結びついている者である分けですから、キリストは兄弟の保護者のようなものです。ですからその保護者を無視して、自分勝手な言葉掛けや交わりを求めることは出来ない訳です。これは勿論クリスチャンに対してだけのことではありません。全ての人はクリスチャンで有ろうと無かろうとキリストに愛されている一人ひとりですから同じ接し方をしなければなりません。
また、そのキリストを媒介とした交わりこそが本当の深い交わりであり豊かな交わりになります。自分勝手な表面だけの交わりとは比べることの出来ないものである訳です。
「このことが〈わたしたちはただキリストの媒介を通してのみ他者に出会うことができる〉と言う意味です。人間的な愛は、他者とはどのような者であり、またどのような者になるかという、他者についての自分勝手なイメージを造る。人間的な愛は、他者の生命(せいめい)を、自分自身の中に握る。霊的な愛は、他者についての真のイメージを、ただイエス・キリストから知る。それは、イエス・キリストが刻みつけ、また、刻みつけようと望みたもうイメージです。
したがって霊的な愛は、他者に対して、語り行うすべてのことを通してキリストを指し示すことによって、その真実が証しされる。人間的な愛が、あまりに個人的な、直接的な働きかけによって、また、他者の生活に不純な干渉をすることによって、他者を人間的にゆり動かそうとするのに対して、霊的な愛はそれとは対照的なものなのです。」
「霊的な愛は、神のみ言葉をたずさえて他者と出会い、彼をしてこのみ言葉と共に長い間ひとりでいられるように配慮し、キリストが彼と関わりを持ちたもうように、彼を再び自由にしようとする。
それは、わたしたちの間に置かれた他者との境界線を大切にし、わたしたちを結びつけ、一つにする唯一の方(かた)であるキリストにおいて、彼との完全な交わりを見出(みいだ)すことが出来るようにするためです。」つまり、相手がキリストとの関係を深めることが出来るようにキリストの前に進み出るように見送ると言うことです。そして、その相手がキリストとの交わりに入るならば、自分との交わりも完全なものとなると言う事です。
「また、他者への愛は、全くキリストにおける真理に結びついていることを、霊的な愛は知っている。この愛について、使徒ヨハネは次のように言っている。『自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。』(ヨハネV4)。」
ここで霊的な愛は、直接的な結びつきを求めず、境界線を大切にすると言うことです。使徒ヨハネが言っているように兄弟が自分との結びつきによって、その信頼関係によって歩むことを望むのではなく、兄弟がりキリストに結びついて歩むことを望むと言うことです。つまり真理に従って歩むことが第一ですと言うことです。ヨハネUの6には「愛とは、御父の掟(真理)に従って歩むことで」す、とある通りです。
ボンヘッファーの説明を続けます。
「人間的な愛は、制御されず、また制御されえない暗い欲望に生き、霊的な愛は、真理によって整えられた奉仕の明るさの中に生きる。人間的な愛は、人間を奴隷化し束縛し萎縮させるように働き、霊的な愛は、み言葉の下(もと)なる兄弟の自由を創造する。人間的な愛は人工的な温室の花を育て、霊的な愛は、神の自由な大空の下(もと)で、雨や嵐や太陽の光の中で、神の憐れみによって健康に育つ果実を創造する。
霊的な交わりと人間的な交わりとの区別をはっきりさせる能力を、適当な時に明らかにすることができると言うことが、いずれのキリスト者の共同体においても、その存在そのものにかかわる重大な問題です。この点について、できるだけ早く目覚めるかどうかと言うことが、キリスト者の交わりの生死を決定します。」
これはブース大将が遺言で言っていた「世俗化に気をつけろ」と同じ事を言っています。つまり信徒同士であってもその間にはハッキリとした境界線がある分けです。同じ愛の行いでもそれが人間的な愛から出たものか、霊的な愛から出たものか人は見分けることが出来ません。しかし本人は知っている訳です。同じ愛の行いでも、ただあの人と仲良くやっていきたいと言うことから来ている愛の行いなのか、そうではなく「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(ルカ10:27口語)との御言の実践からの愛の行いなのかは、自分自身に問うてみれば分かることです。
多くの教会が世俗化の波にさらされています。御言を実践する。その所に神の国は実現いたします。教会は真の教会とならなければなりません。そしてその感化が地域社会に影響を与え国全体が真の神の国となっていくように宣教の働きを進めていかなければなりません。
これがボンヘッファーがキリスト者共同生活の施設の責任者である時に学んで勧めているものです。
ヨハネV3- 4
「1:3 兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。1:4 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。」すべての人が神の真理に従って生きることが出来るよう祈り、勧めてまいりましょう。
<要約>
人との交わりには「霊的な交わり」と「人間的な交わり」があり、これは本人も気付かない事があります。ボンヘッファーは次のように指摘しています。「霊的な交わりの根拠は真理であり、人間的な交わりの根拠は欲望です。霊的な交わりの中には、互いに兄弟として奉仕しあう明るい愛であるアガペーが生き、人間的な交わりの中には、享楽を求める無秩序な欲望がある。前者には、お互いに兄弟としての謙遜な従属があり、後者には自分の欲望に、謙遜に見えながらその実は高慢に、兄弟を従属させることがある。霊的な交わりには、ただ神のみ言葉だけが支配しており、お互いの間の「直接的」な関係は、決して、どのような状態においても、存在しないが、人間的な交わりにおいては、ほかの人間の魂との直接的なふれあいを求める。同じように、「人間的」な隣人愛が存在します。それは大きな犠牲を払うこともでき、しばしば熱烈な献身と目に見える成果において真正なキリストの愛に勝ることがある。人間的な愛は、自分自身のために他者を愛し、霊的な愛は、キリストのために他者を愛します。
人間的な愛は、他者との直接的な触れ合いを求め、他者を自分につながれているものとして愛し、他者を支配しようとし、真理をあまり重んじない。霊的な愛は、キリストから来る。この愛は、キリストにのみ仕え、他者に近づくどのような直接的な道をも知らない。キリストが、わたしと他者との間に立ちたもう。霊的な愛は、ただイエス・キリストのみ言葉にのみ束縛される。
「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9)。これが霊的な愛であり、これ以上に出るのは人間的なものです。ですから愛とは私の思いを実行することではなく、ただキリストに仕えることが愛です、と言うことが出来ます。キリストが、わたしと他者との間に立ちたもうゆえに、わたしは、他者との直接的な交わりを望むことは許されない。このことが〈わたしたちはただキリストの媒介を通してのみ他者に出会うことができる〉と言う意味です。人間的な愛は、他者とはどのような者であり、またどのような者になるかという、他者についての自分勝手なイメージを造る。霊的な愛は、他者についての真のイメージを、ただイエス・キリストから知る。それは、イエス・キリストが刻みつけ、また刻みつけようと望みたもうイメージです。人間的な隣人愛は、あまりに個人的な、直接的な働きかけによって、また、他者の生活に不純な干渉をすることによって、他者を人間的にゆり動かそうとする。霊的な愛は、わたしたちの間に置かれた他者との境界線を大切にし、また、他者への愛は、全くキリストにおける真理に結びついていることを、霊的な愛は知っている。霊的な愛は、真理によって整えられた奉仕の明るさの中に生きる。人間的な愛は、人間を奴隷化し束縛し萎縮させるように働き、霊的な愛は、み言葉の下(もと)なる兄弟の自由を創造する。