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-キリストが私と他者との間に立ちたもう- 前へ / 後へ -互いに愛し合いましょう-
「人はなぜ苦しむのか」(110501ku)
 
音声
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コリントの信徒への手紙T12:31〜13:7
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 
コリントの信徒への手紙T13章は愛の章と言われているところですが、この章に限らず聖書全体は愛について語られています。その基本となっているテーマは創造者からの被造物への愛です。聖書はこの神の愛を土台として愛について語られているわけです。
私は結婚をする前には聖書を読むにつれて自分は愛の人になっているだろうと思っていましたが、ところが結婚をしてみると、妻の気持ちになって考えると言うことをしないで、ただ自分中心にしか物事を考えていないと言うことに気付きました。
 
聖書を読んだだけでは愛の人になれないと言うことです。これはスポーツと同じで教科書を読んだだけでは速く走ったり、上手にプレーをすることはできません。頭で理解したことを体に覚えさせるために練習が必要です。そのように愛についても実践しながら聖書の通りに出来るように訓練をする必要があります。
 
さて「人はなぜ苦しむのか」との問いですが、皆さんはどのような答えを持たれたでしょうか。ある人たちは神がおられるならどうして社会に困難が有るのか、とクリスチャンを攻撃します。今回の東日本大震災に際してローマ法王は被災地からの「どうしてこのような災害に遭わなければならないのですか」との質問に答えて「私もわからない、しかし、私たちはあなた達と共にいます」と答えています。
皆さんはどう答えられるでしょうか。
「人はなぜ苦しむのか」、その答えの第一は人が神様から離れ、神の国の原則から逸脱しているためですある、と言うことです。つまり、自分で危険と知りながら、あるいは無知なために危険に近づき、自分を苦しめている、と言うことです。これは災害についても言えますが、主に人生において、また社会においてと言うことです。
ローマ法王は、被災した人に対して勿論このような答えは出来ませんので、第二の答えをいたしました。それは、神の愛に出会い、彼らが神のもとに帰るためです、と言うことです。
 
災害についても言えますが、主に人生において、また社会においてのものです。苦しみ、困難、悲しみ、これは、私たちが神の愛に出会うために経験いたします。
 私自身について考えても順風満帆(まんぱん)であったならば救世軍への誘いを受けたときに、心を動かすことがなかったと思います。
教会の使命は、そのような人々に神の愛を運ぶこと、これがクリスチャンの働きです。
 
さて、聖書は「神のために行うすべての行動は、愛がなければむなしい」と言っています。愛がなくては何の意味もありません。愛は神の性質を表すものです。
また、愛がなくては、自分を犠牲にすることは出来ません。神の愛に心が満たされていなければ、神のようになることは出来ません。暗闇の中にいる人たちのために勇気を持って行動しましょう。人々を救助することが出来るのは、ただ愛に動機づけられるときだけです。
 人々を愛しましょう。たとえどんな人でも、愛しましょう。欠点にかかわらず、無条件の愛で人々を愛する、これが神の愛です。
 
すべての人は愛を必要としています。人々が神のもとに来るのは、神のうちに愛を見いだすからです。私たちを通して神の愛が世に流れるようにしなければなりません。人々はこの愛を私たちのうちに見る必要があります。
教会は人々に愛と心遣いを示し、一人一人に関心を払う場所とならなくてはなりません。教会の人々を通して神の愛が注がれることによって、人々は神に出会うことが出来るようになります。
 
神の愛のゆえに、私たちは誰をも憎むことも許されません。苦々しい思いや怒り、憎しみを持つことは許されません。愛はすべての人をありのままで受け入れます。愛は心遣いと繊細さと憐れみの心をもって人々を受け入れます。神の愛を十分に持っていなければ、人々を助けることは出来ませんし、社会を変えることも出来ません。地上に神の国を建て上げたいならば、私たちは神の愛に満たされ続けなければなりません。
人々を愛しましょう。人は皆神の子です。人々こそが最高の宝です。たとえ、彼らが間違ったことをしたとしても愛しましょう。
人々は愛を求めています。教会に与えられた最初の任務は、神の愛を人々に表すことです。例えば、群衆でいっぱいになった大きな暗い会場に、小さなろうそくを灯すならば、中にいるすべての人に見えるはずです。神の愛は、このろうそくである訳です。
 
もし私たちが小さなろうそくになるならば、周りの人たちは神の光を見ることになります。神の愛のほんの一部でも表すことが出来れば、世の人々は私たちのところに集まってきます。神の愛は人々をありのままで受け止め、彼らに影響を与え、より良い方向へと変えていきます。
人はこの世で生きていく間に、辱めを受け、踏みつけられ、低い自己価値観を持ってしまいます。彼らは誰にも価値を認められませんでした。しかし、私たちクリスチャンは、彼らのかけがえのない価値を知っています。彼らの価値とはイエス・キリストの命の価値です。ですから、彼らは神の国にとって重要な価値がある人々です。
 
この神の国の愛はすべての人を急激に変えるほどの力があります。この愛には、彼らの心の扉を開き、拒絶の痕跡(こんせき)を消し去る力があります。
本来人は沢山の愛のうちに成長すべきものでした。ですから、その受けられなかった愛を今私たちが補う必要があります。
コリントの信徒への手紙T「13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
 
「愛がなければ、無に等しい」、これが聖書のメッセージです。しかし、愛を行うには犠牲が必要だからと言って躊躇する人が居ます。先日のひったくり犯を追いかけるにもそれには犠牲がありました。このために約6時間費やす必要がありました。しかし、その後被害者から連絡があって次の日にはわざわざ東松山からお礼に来てくださいました。金井さんと言いましたが、金井さんにとって小さなろうそくとなることが出来たと思います。
 またこのような実際的な働きの前に第一段階として成すべき事があります。それは過去に出会ったすべての人を心の中で愛すると言うことです。「13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。これをまず実行いたしましょう。すべての人に対して「ねたまない、高ぶらない、いらだたず、恨みを抱かない」。これが愛です。ですから過去に出会ったすべての人を心の中で愛すると言うことが必要です。
過去に恨みに思ったり、苦々しい思いがあるならば、それは誤った反応をしてしまったと言うことです。ですからその記憶を呼び戻し悔い改めましょう。それらのすべての人に対して悔い改めたときに、心の重荷は取り除かれます。
 
ヨブ記11:13-19を読んでお祈りの時を持ちましょう。「11:13 もし、あなたも正しい方向に思いをはせ/神に向かって手を伸べるなら11:14 また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ/あなたの天幕に不正をとどめないなら11:15 その時こそ/あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく/恐怖を抱くこともないだろう。11:16 その時、あなたは労苦を忘れ/それを流れ去った水のように思うだろう。11:17 人生は真昼より明るくなる。暗かったが、朝のようになるだろう。11:18 希望があるので安心していられる。安心して横たわるために、自分のねぐらを掘り11:19 うずくまって眠れば、脅かす者はない。多くの人があなたの好意を求める。」
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約>「人はなぜ苦しむのか」、その答えの第一は人が神様から離れ、神の国の原則から逸脱しているためです。つまり、自分で危険と知りながら、あるいは無知なために危険に近づき、自分を苦しめている、と言うことです。これは災害についても言えますが、主に人生において、また社会においてと言うことです。第二の答えは、神の愛に出会い、神のもとに帰るためです。苦しみ、困難、悲しみ、これは、私たちが神の愛に出会うために経験いたします。私自身について考えても順風満帆であったならば救世軍への誘いを受けたときに、心を動かすことはなかったと思います。教会の使命は、そのような人々に神の愛を運ぶこと、これがクリスチャンの働きです。 さて、聖書は「神のために行うすべての行動は、愛がなければむなしい」と言っています。愛がなくては何の意味もありません。愛は神の性質を表すものです。また、愛がなくては、自分を犠牲にすることは出来ません。神の愛に心が満たされていなければ、神のようになることは出来ません。暗闇の中にいる人たちのために勇気を持って行動しましょう。人々を救助することが出来るのは、ただ愛に動機づけられるときだけです。人々を愛しましょう。たとえどんな人でも、愛しましょう。欠点にかかわらず、無条件の愛で人々を愛する、これが神の愛です。 すべての人は愛を必要としています。人々が神のもとに来るのは、神のうちに愛を見いだすからです。私たちを通して神の愛が世に流れるようにしなければなりません。人々はこの愛を私たちのうちに見る必要があります。教会は人々に愛と心遣いを示し、一人一人に関心を払う場所とならなくてはなりません。教会の人々を通して神の愛が注がれることによって、人々は神に出会うことが出来るようになります。
 
神の愛のゆえに、私たちは誰をも憎むことも許されません。苦々しい思いや怒り、憎しみを持つことは許されません。愛はすべての人をありのままで受け入れます。 地上に神の国を建て上げたいならば、私たちは神の愛に満たされ続けなければなりません。人々を愛しましょう。たとえ、彼らが間違ったことをしたとしても愛しましょう。人々は愛を求めています。人はこの世で生きていく間に、辱めを受け、踏みつけられ、低い自己価値観を持ってしまいます。彼らは誰にも価値を認められませんでした。
しかし、私たちクリスチャンは、彼らのかけがえのない価値を知っています。彼らの価値とはイエス・キリストの命の価値です。ですから、彼らは神の国にとって重要な価値がある人々です。この神の国の愛は彼らの心の扉を開き、拒絶の痕跡を消し去る力があります。本来人は沢山の愛のうちに成長すべきものでした。ですから、その受けられなかった愛を今私たちが補う必要があります。「愛がなければ、無に等しい」、これが聖書のメッセージです。 また、実際的な働きの前に成すべき事は過去に出会ったすべての人を心の中で愛すると言うことです。すべての人に対して「ねたまない、高ぶらない、いらだたず、恨みを抱かない」。これが愛です。過去に恨みに思ったり、苦々しい思いがあるならば、それは誤った反応をしてしまったと言うことです。ですからその記憶を呼び戻し悔い改めましょう。それらのすべての人に対して悔い改めたときに、心の重荷は取り除かれます。